教育の変遷と団塊の世代 団塊世代が直面する熟年の生き方 依多起生(えたきしょう) 人は何のために生きているのか 人は死んだら終りではない 花あかりの地図 ご感想など メール下さい
浄土真宗の教えは凡夫が仏にしていただく教えであり、阿弥陀さまと同じ・弥陀同体となる教えである。 凡夫とは凡庸劣夫(ぼんよう れっぷ)の略で、仏になっていく力も可能性もない、地獄に落ちるのが決まっている私のことである。親鸞聖人は「一念多念文意」のなかで、「『凡夫』というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらわれたり。」と説かれている。 「今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして、清浄(しょうじょう)の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」といわれ、地獄に落ちることしかできない私が仏にならせていただくためには、次の3つのポイントが不可欠である。 ポイント1. 凡夫とは私のことである。 ポイント2. なれない仏にならせていただくには、 私を仏にしてくださるお方がおられる。 ポイント3. そのお方のはたらきを受けとる。 お寺に行ったこともなく念仏も申したことのない人が仏になるかといえば、仏にはなれない。私を仏にしてくださるお方は阿弥陀という仏さまである。阿弥陀さまには私が仏になっていくための手だてがある。私がおるから如来さまの側からたってくださった仏さまが、阿弥陀さまである。南無阿弥陀仏という名号にこめて、私が仏になるための手だてを用意してくださった。 仏のなり方には二種類ある 自力 自らの力で渡って行く 体も鍛えなければ途中で濁流にのまれる 他力 南無阿弥陀仏の本願力 阿弥陀さまの力で渡してもらう 禅宗の「景徳伝灯録」に、仏の三不能(さんぷのう)というのがある。 ・業力を転ずることはできない。 身・口・意の三業でためこんだ地獄行きの因しかないもの。 ・縁なき衆生は度しがたし。 手がかりのないものは仏でも救うことができない。 ・衆生界をつくすことあたわず。 仏でもすべてのものを救いつくすことはできない。 諸仏の方々からサジを投げられた私を、一番もれる私だけを唯一すくってくださるのが、阿弥陀さまであり、阿弥陀さまだけが私を仏にしてくださる。信心決定の身のうえになることは人間に生まれて一番大切なことである。仏にならしていただくのが定まるのは、いま・ここで救われていくのが浄土真宗である。 如来さまのはたらきを親鸞聖人は教行信証・行文類に、「なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆえに」と述べられる。磁石はどんな釘でもすいつける。釘の中に磁気が入ってくるから(回向)で、如来さまの功徳が私の身にどんどん入ってくる。「五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」と高僧和讃に説かれた。 南無阿弥陀仏の名号は、「全徳施名(すべての徳を名に施す)」とも言い習わされるように、如来のさとりの一切の功徳がおさめられている。南無阿弥陀仏という大きな風呂敷に全てを包み込んで、「さあ受けとれよ」と私に届けてくれた。 南無阿弥陀仏に出逢う前の私は、 つねに欲も多く、いかり、そねみ、 ねたむ心多い 口からこぼれるのは愚痴ばかり 弥陀の本願力に逢いぬれば、 煩悩具足の身は変わらねど、 私の中に如来さまが住みついて、 身に満ちて、南無阿弥陀仏のお念仏となって 私の口からこぼれだす。 南無阿弥陀仏の日ぐらし 如来さまが、私の中に住みついて下さる。私が如来さまの家主にならせていただく。 信心 = プラサーダー = タノム = 憑(たの)む (×浄土真宗では「頼む」ではない) 私一人ではなく如来さまと共に。南無阿弥陀仏は如来さまの側からいえば「はたらき」であり、私の側からいえば、「私は一人ではありませんでした」という仏恩報謝の念仏である。如来さまと一緒に歩ませていただくお念仏を頂戴することによって、「いのちの尊さ」に気づかせていただく。 私どもがどういう「お念仏の日ぐらし」をするのかというと、昭和45年に第24代門主となられた大谷光真門主は、「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、浄土で真のさとりに至るのが浄土真宗であります。」と述べられた。「私がする信心」でなく、「めぐまれた信心」である。如来さまから賜った信心であるから、「ご信心」とか「ご安心」といい習わされる。 念仏申す人生とは、 ・力強く歩むことができる。 如来さまから「お前の後生は引受けた!」といわれる。 ・明るく生きられる。 後生の一大事が解決。死ぬのではなくお浄土に生まれる。 ・恐れなく生きることができる。 念仏者は無碍の一道で、何の恐れもなくなる。 ・仲間と共に生き抜くことができる。 御同朋、御同行となる。 歎異抄で、「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」と述べられているように、いのちの共感、苦しんでいる人がいれば、一緒に手をたずさえて生きていける。そして環境問題にも積極的に取組んでいくのが浄土真宗である。