目 次

1.年表
ボタン親鸞の生きた時代

3.親鸞誕生から出家
4.比叡山での修行

5.越後への流罪
6.関東での布教
7.恵心尼のこと
8.帰京から入滅
9.蓮如

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2.親鸞の生きた時代

平安時代~鎌倉時代  末法思想の蔓延

 天平文化が開花した奈良・平城京から、794年に都が京都の平安京へと移り、1192年に鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を平安時代という。
 平安時代は、かな文字や「源氏物語」「枕草子」などの優れた作品が生まれ、藤原氏など貴族中心の時代でもあった。
 平安前期は奈良時代からの中央政権的な、土地と人民は王の支配に服属し、王の他は誰もが平等であるという思想のもと、人民(百姓)に平等に耕作地を支給する代償として、租税・労役・兵役を課すという律令政治を継承したが、9世紀中から10世紀初頭には律令制と現実との乖離が大きくなり限界となった。
 平安中期~後期を王朝国家体制と呼ぶ。
 中央政府は租税収入確保のため人別支配体制から、土地に課税する支配体制へと方針を転換した。これにより中央から地方政治へと大幅な統治委任が行われた。民間の有力者に租税徴収・軍事警察などの権限が委譲され、現地赴任の筆頭国司が統括するという支配体制となった。この時期は富豪百姓間や国司と富豪百姓間の紛争も起こり、桓武平氏や清和源氏、藤原氏など軍事を専門とする軍事貴族などが出てきて、その子孫が後の武士へと成長していった。
 この時期、中央政府は積極的に社会の実態に適合するよう王朝国家体制という統治体制を構築していき、次なる中世国家につながる、まさに古代から中世への過渡期でもあった。
 都から離れた関東地方では、平安中期から利根川や多摩川など大河川とその支流を開拓して田畑が作られ、その土地や水利権を巡っての争いも頻発するようになった。このため、有力な農民は仲間を増やして武装していき、後に坂東武者と呼ばれる武士の始まりとなった。
 平安末期の保元元(1156)年、都では天皇家のお家騒動が原因で保元の乱が起こり、3年後には平治の乱と戦乱が続き、功績をあげた平清盛は平氏政権を形成していった。その後、後白河法皇の王子の挙兵を契機に各地で平氏政権に対する氾濫があり、この平治の乱から20年ほど後、1180年から6年間にわたる大規模な内戦、治承・寿永の乱(源平合戦とも呼称される)により平氏政権は崩壊した。

 次に、源頼朝を中心とした武家政権・鎌倉幕府(1185年頃~1333年)へと移っていく。
 源頼朝が幕府を開いた鎌倉が全国統治の中心となり、武家政権による統治が行われるようになった。これまでの京都の朝廷と地方の荘園という支配構造に、武士が守護・地頭として台頭したことで複層支配となった。
 
 
平安時代から鎌倉時代にかけて、人口推移から時代背景を考察する
 歴史人口学研究者の鬼頭宏氏は、奈良時代の日本の人口は450万人、平安時代(900年)は550万人、鎌倉時代は(1200年)750万人という。
 日本の人口推移、平安末から鎌倉時代
 紀元前3世紀頃の弥生時代、水稲耕作の技術が大陸から伝わって日本の人口は増えだしたが、その後長く横ばいを続けた。奈良時代になると国家収入を増やすため、大和朝廷は主に陸奥の政情不安定への対処もあり、722年に100万町歩開墾計画を出したが、班田農民の夜逃げや不浪人化により奥羽を合せても10万町歩程度に止まったという。
 また、743年には墾田永年私財法を発布し、資本を持つ中央貴族や大寺社、地方豪族が活発に開墾を行った。畿内を中心に大規模土地所有者が出現し、律令制は崩れだして、荘園発生へと転換を始めた。

(以下、書きかけです)

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