団塊世代が直面する熟年の生き方

 団塊世代の人たちが、40年くらい前、初めて社会人になったころ、大先輩を見て、「あんなに年とった人でも仕事してるんだ」と思い、自分が中堅になったらチャラチャラする後輩を見て、「最近の新人は、ろくな仕事もしないで遊んでばかり」と吼え、ゆっくり仕事をする先輩を見ては、「ああいう年寄りがいるから業績が悪いんだ」と見下し、自分が定年間近になったら、「会社のために一生懸命やってきた俺を役職から外して給料も減らし、人を大事にしない会社だ」と嘆く、振りかえれば、あっという間の仕事人間でした。
 定年退職は、生きがいだった仕事と誇りから引き剥がされることです。
 私はこれまで頑張ってきた、退職を期に自分の好きなことに時間を使おうと心待ちにしている人もいれば、会社に見捨てられたと考える人もいます。モヤモヤが消化しきれない人でも、ある時間が経てば、もう会社人間じゃなくなったんだという諦めとともに、少しずつ気持ちも変化し、居場所を見つけだします。
 今日より明日、明日よりあさってという攻めの人生から、小鳥のさえずり、風の音、日の光を感じられる静かな時間へ、何でも俺がやらなくちゃ!という強迫観念にも似た人生から、穏やかな時間、無駄なものをそぎ落としていく人生のあったことに気づきます。
 これまで力任せに生きてきた団塊の世代、老いや死など、無理やり意識の外に押しだしていたことが、身近なものとして考えられるようになってきます。とはいっても
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の私たち人間ですから、 元気になったり落ち込んだりを繰り返しながらではありますが、何でもかんでもには執着しないという、心の勉強ができていくのでしょう。
 それが、万人とも逃れ得ない、一日いちにちが死に向かって歩んでいく、人生修行なのでしょう。
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